書道の素養はない。というか、悪筆加減は絶望的である。
達筆な人をみると、羨ましくてならない。
十代で読んだ宮本武蔵で、幼少の武蔵が書道で集中力を高めたという描写があり、そんなものだろうかと感心していた。(そうした説話は一切なく、その本の作者の啓発であったのだろう)
書は人なり、という俗諺はあまり好きでは無い。
書に人格が表現されるというのは、にわかには信じられないからだ。
書家の師僧の末席にいて、こんなこというのもいけないのだが、書の表現と人徳とは必ずしも比例しないのではないかと思っている。
孫文の書はほとんど残っていないという話を聞いて、いかにもと思う。
近代の革命家に、中世の書は似合わない。
いや、高校時代の書道の先生が、人徳者と思えなかったことに起因しているのかもしれない。
書がきれいだが、猜疑心と虚栄心の塊のような人がいた。
恐ろしく悪筆だが、冷静沈着に仕事をする人も見た。
達筆であるから、人徳者であってほしいというのは、やはり願望である。
と、いうことをもって、安心して汚い字を書いている。
多分、今年も汚い字を書いているだろう。